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蜘蛛の糸

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ある日の事でございます。逢坂様は経営会議室のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。会議室の中に座っている人の髪は、みんな玉のようにまっ白で、その左腕にある金色の時計からは、何とも云えない金の匂いが、絶間なくあたりへあふれて居ります。会議室は丁度朝会なのでございましょう。

やがて逢坂様はその会議室のふちにおたたずみになって、部屋のガラス壁をおおっている観葉植物の葉の間から、ふと外のようすを御覧になりました。この会議室の外は、丁度地獄の底が広がって居りますから、水晶のような壁を透き通して、仕事の山の景色が、丁度のぞき眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。

するとその地獄の底に、カンダタカシと云う男が一人、ほかの社畜と一緒にうごめいている姿が、御眼に止まりました。このカンダタカシという男は、人の絵をトレスしたりブログを炎上させたり、いろいろ悪事を働いたおおどろぼうでございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深いインターネッツの中を通りますと、小さな蜘蛛の絵が一枚、お絵かきサイトにアップされているのが見えました。そこでカンダタカシは早速手を挙げて、トレスしようと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のこめられた作品に違いない。その命をむやみにとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛の絵のトレスはせずに「いいね!」してやったからでございます。

逢坂様は地獄の容子を御覧になりながら、このカンダタカシには蜘蛛の絵を「いいね!」した事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をしたむくいには、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠のような色をしたLINEスタンプを作り、極楽にたどりついた絵師が一人、美しい銀色の絵をかいて居ります。逢坂様はクラウドサーバーをそっと乗っ取りになって、玉のような成功体験談をおまとめになってから、遥か下にある地獄のインターネッツへ、まっすぐにそれを御下しなさいました。

こちらは地獄の底の血の池で、ほかの社畜と一緒に、気持ちが浮いたり沈んだりしていたカンダタカシでございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しいモニターを見た目の中のモニターが光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ社畜がたたくかすかな「カチャカチャカチャ…ッターン!」ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすがおおどろぼうのカンダタカシも、やはり血の池の血にむせびながら、まるで死にかかった蛙のように、ただもがいてばかり居りました。

ところがある時の事でございます。何気なくカンダタカシが頭を挙げて、インターネッツの血の池を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、LINEスタンプの成功談が、まるで人目にかかるのを喜ぶように、一すじ細く光りながら、するすると自分の目の前へ表示されて参るのではございませんか。カンダタカシはこれを見ると、思わず手をうって喜びました。このLINEにすがりついて、どこまでもスタンプを作っていけば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう仕事の山へ追い上げられる事もなくなれば、インターネッツの血の池に沈められる事もある筈はございません。

こう思いましたからカンダタカシは、早速その意図を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に売れ筋スタンプをトレスし始めました。元よりおおどろぼうの事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。

しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦って見た所で、容易にランキングの上位へは出られません。ややしばらく申請するうちに、とうとうカンダタカシもくたびれて、もう一スタンプもトレスできなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、審査の中途で待ちながら、遥かに他の絵師を見下しました。

すると、一生懸命に作ってきた甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池のインターネッツは、今ではもうペイントソフトの底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい仕事の山も、足下に隠してしまいました。この分で作成して行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。カンダタカシは両手をトレス台にかけながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「マジ寝てないからつれーわー。マジ寝てないからつれーわー。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、審査待ちの後ろの方には、数限りもない社畜たちが、自分の申請した後をつけて、まるで蟻の行列のように、やはりアップロードアップロードと一心に作成して来るではございませんか。カンダタカシはこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、ばかのように大きな口を開いたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ少ない、このスタンプ収益が、どうしてあれだけの人数の生活費に堪える事が出来ましょう。もし万一途中でスタンプ売り上げが途切れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云ううちにも、社畜たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池のインターネッツから、うようよとはい上って、細く光っているチャンスの糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今のうちにどうかしなければ、スタンプ収益は細々にわかれて、落ちてしまうのに違いありません。

そこでカンダタカシは大きな声を出して、「こら、社畜ども。このLINEスタンプ収益はおれのものだぞ。お前たちは一体誰にきいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」とわめきました。

その途端でございます。今まで何ともなかったLINEの運営サイドが、急にカンダタカシのスタンプが権利を侵害しているという理由から、ぷつりと音を立てて販売停止としてきました。ですから、カンダタカシもたまりません。あっと云う間もなく風を切って、独楽のようにくるくるまわりながら、見る見るうちに暗の底へ、まっさかさまに収益は落ちてしまいました。

後にはただ極楽まで登ったLINEスタンプが、きらきらと光りながら、意味も脈絡もないLINEトークの中途に、短く垂れているばかりでございます。

逢坂様は経営会議室のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてカンダタカシが血の池のインターネッツへ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カンダタカシの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、逢坂様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。

しかし経営会議メンバーは、少しもそんな事には頓着(とんじゃく)致しません。その玉のような白い髪を持つメンバーは、逢坂様の御話にあわせて、ゆらゆら頭を動かして、その左手にある金色の腕時計からは、何とも云えない金の匂いが、絶間なくあたりへあふれて居ります。会議室ももう昼会の時刻に近くなったのでございましょう。

(これは、芥川龍之介「蜘蛛の糸」のパロディ小説です)

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