学問としての数学と道具としての数学
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これを読んだ。
結果から原因を探る数学『逆問題の考え方』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
紹介されてる本は読んでないけど、この記事を読む限り、「理学部の数学と工学部の数学の違い」のことを話しているように感じた。もう少しいうと、数学を学問として見るのか、道具として見るのかの違いだ。
世間で使われる数学においては、「道具」としての使い方が重要だ。しかし、それは「学問としての数学」とは一致しない。道具として使うときには「学問としての数学」において導かれた結果を応用することにはなるんだけど、道具としての数学と学問としての数学の交わる世界はそんなに大きくない。「学問としての数学」はそのすべてが現実世界に応用されるために発展しているわけではないし、「道具としての数学」も現実世界の課題解決に貢献しない部分まで積極的にカバーすることはない。後者は「数学を道具としてどう使うか」という方向で進化しており、前者と変わらず膨大な世界になっている。
モデルとか数理モデルという言葉が使われることがある。数理モデルは、現実の世界で起こっていることを数式などで表現したものだ。ただ、この言葉から「現実を表す数式が、もともとどこかに存在する」と想像している人がいるんじゃないか、と感じることがある。その証拠に、モデルの結果と違うことが起こった時に、「数学は使えない」とか「数学が成り立たない世界もあるんだ」とか言ったりする。しかし、それは違う。数理モデルやそこで使われる数式というのは、そのモデルを作った人のアイデアによって異なる。現象を記述できるすばらしい数式が存在する、ということはまれだ(物理の世界くらいかな)。モデルが現実と乖離した場合、それは数学が間違っているのではなく、応用の仕方、つまり道具としての使い方が間違っていた、というだけなのだ。
「1+1が2になるとは限らない」。確かに現実世界ではそうだ。二人が協力してそれを超えるパワーを発揮することはある。しかし、それは「1+1=2」が間違っているということではなく、その数式を使う場面が間違っている、というだけのことだ。