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自分の考えの正当性を示す手段がない世界について

自然科学は特にそうだけど、自分の考えが正しいと主張したかったらそれを証明するしかない。「正しいはずだ、正しいに違いない」といくら主張しても、それを証明するものがなければ相手にしてもらえない。逆に、証明できさえすれば、小学生の主張だろうがド素人の主張だろうが、正しいと認めざるを得ない。

数式による証明なのか、実験による証明なのか、分野によって方法は違う。数式による証明は、その行間を埋められるだけの計算力や数学的な背景があれば、理論上は誰にでも正当性を判断することはできる。実験による証明は、他の人がその実験をしてみて同じ結果になるのであれば、正しいと判断できるだろう。

ただし、実験による結果の再現は、分野によっては難しいこともある。その理由の一つに、無視できない外部影響がある。医学や心理学は、実験結果が被験者に依存する可能性があり、実験の成功がたまたまなのか普遍的なのかの判断が難しい場合がある。経済学でも、国民性や文化、政治的背景や歴史的背景などに依存することがあり、外部影響が無視できないことがある。

無視できない外部影響が存在すると、主張とその証明との間に距離が生まれる。つまり、その主張を成り立たせる要因が外部影響によるものかもしれないので、主張の正当性が判断しづらくなる、ということだ。いや、それ以前に、「外部要因がありすぎて、主張の正当性を示す証明方法が存在しない」ことだってあるだろう。そもそも、主張を証明するための実験に倫理的な問題があったり、壮大すぎて実現不可能といった理由で、最初から実験方法が事実上存在しない場合もある。

「自分の考えが正しいこと」を証明できない世界では、「自分と違う考えが正しくないこと」を証明できないことも多い。そんな世界では、「私は正しい、お前は間違っている」という議論を延々とやるのは、不毛だ。それを示す手法がないのだから。

自分の考えの正当性を示す手段がない世界でも、他の人が見落としているポイントや発想が補えるかもしれないという点で、自分の考えを主張することにはまだ意味があるだろう。しかし、それ以上のことは望めない気がしている。

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