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【長文】映画「万引き家族」を見てきました

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映画「万引き家族」を見てきました。以下の記事は、ネタバレを含んでいますので、映画を見ていない方は読まないほうがいいです。というか、そもそも映画を見ていない状態でこの記事を読んでも、まったく意味不明だと思います。

【目次】

息子と万引き

息子(しょうた)は、万引きが悪いことだとは思っていなかったのではないだろうか。"朝立ち"を何かの病気かと思って隠してしまうような、そういう「見つかってはいけないこと」くらいには思っていたのかもしれない。しかし、彼にとっては、父親から教わり、父親と協力して行う狩りのような、仕事の一種のような感覚のほうが強かったのだろう。悪いことというよりも、父との共同作業を通じて、一体感や絆を感じられる、そういう意味のある行為だと考えていたのだと思う。

ところが、彼は、万引きは実は悪いことだと徐々に気づいていってしまう。自分が父から教えてもらったように妹に教え、同じような絆を結ぼうとしたものの、「そんなことは妹にさせてはいけない」と駄菓子屋の店主に言われてしまう。「店が潰れなければいい」という母の言葉に反し、その駄菓子屋はつぶれてしまう。「店の物は、まだ誰のものでもない」という父の言い分に納得していたのに、実はポリシーなんてなかったことを、車上荒らしをする父を見て思ってしまう。

息子は、頭がよくなってしまった。"英語ができなくて国語もできない父"とは違い、息子は本を読み勉強をしていた。スイミーだって知ってる。釣りの道具についても説明できるのだ。成長してしまった彼は、この生活がそう長くは続かない、と気付いてしまったのではないか。

妹が万引きをする。この意味をまだ妹は理解していないかもしれない。父親に教わったときの自分が理解していなかったように。万引きする妹を、とめるでもなく、かばうでもなく、見捨てるでもなく、息子はこの生活を終わらせる選択をとる。彼はわざと捕まり、そして、この生活は終わる。

"家で勉強できない者が行く"という学校へ、彼も行くことになる。学校でしか学べないものを学びに。彼は知識をつけ、成長していくだろう。

彼が本当の親に会いに行くのか、施設でそのまま生きていくのかはわからない。いずれにせよ、彼には"万引き家族"はもう不要だ。例のおまじないだって、もうやる必要はない。

父ちゃんと父親

父ちゃんは、純粋に家族が欲しかったのだろう。休みの日に公園で息子とサッカーをするような、そういう家族を。

彼は、自分のことを父ちゃんと呼び、呼ばせようともした。息子に妹を認めさせた車内で、父ちゃんは「父ちゃん」も認めさせようとした。だが、失敗した。彼は結局、父ちゃんと呼ばせることに、一度も成功しなかった。

彼は、息子から呼ばれなかったが、逆に、何度も息子の名前を呼んだ。

生活の場面だけではない。空想するときもだ。父親と息子がサッカーをする場面、父親と息子が新築のマンションで生活する場面、こういう場面を彼が空想するとき、彼は息子の名前を呼んだ。

それは自分の名前でもあった。

彼が空想するとき、父親と息子以外は出てこない。彼の空想には、今一緒に住んでいる家族は登場してこない。いつだって、「息子の名前を呼ぶ父親」だけが出てくる。

彼には、父ちゃんがいなかったのではないだろうか。彼にとっては、家族の中でも、特に「父親」が大事で、「父親」を欲していたのだろう。そして、彼は、父ちゃんに自分のことを呼んでほしかったのではないだろうか。

父ちゃんと呼ばれたいのではなく、本当の父ちゃんに自分の名前を呼んでほしかった。やって欲しかったことを、自分の気の済む分だけやっている。そういう欲求を満たすことが、彼には必要だったのかもしれない。

母親と絆

母親も、家族が欲しかった一人だ。娘が、本物の家族よりも自分たちの家族を選んでくれたことに喜んでいた。子どもが選んだ家族なのだから、絆だって強くなるはずだ、と。そう、冗談半分に言った彼女は、「家族」よりも、「家族の絆」のほうを重視していた。

母親は、同僚からどちらがクビになるかを話し合った際、家族と仕事とを天秤にかけ、家族をとった。商店街で働いている人から「お母さん」と喜ばれて純粋に喜んだ。父ちゃんの同僚だって、みんなを家族だと認識していた。見た目も中身も、本当の家族の絆でつながっているように見えた。

しかし、その絆はもろかった。家族の絆は、心でつながっていたわけではなかった。下半身でつながっていたわけでもなかった。金と犯罪でつながっていただけであった。

腕に同じ火傷の痕がある母と娘。足にけがをする父と息子。2つの名前を持つ姉と妹。同じところ、似ているところをいくつ集めても、彼らは家族になることはできなかった。子どもから、父ちゃんが父ちゃんと呼ばれることはなく、母ちゃんが母ちゃんと呼ばれることもなかった。

母ちゃんは、時間をかければ、母ちゃんになれると思っていたのかもしれない。しかし、最終的に、彼女は真実にたどりつける手がかりを息子に伝え、彼女は家族の形を維持することを放棄した。

父ちゃんは抵抗し、父ちゃんでいようともがいたものの、同じ結論を出す。父ちゃんは、「そして、おじさんになる」。父ちゃんも家族の形を諦め、家族は崩壊した。

長女と3万

長女(あき)は、ピュアな人間だ。いいことも嫌なこともすぐにまわりにばれてしまう。好きな人ができるとバレてしまうし、イヤなことがあると足が冷たくなって、やっぱりバレてしまう。

一緒に寝ているお婆ちゃんは、大好きな存在だ。「家にお金を入れなくていい」という素晴らしい条件で、お婆ちゃんの家に置いてくれている。甘やかしてくれるし、実際、甘えもする。何でもお見通しのお婆ちゃんには、何でも教えてあげるのだ。風俗系のバイトで簡単にお金が稼げることも、”童貞殺し”がどういう服なのかも。

ただ、このお婆ちゃんと長女とをつなぐ想いは、同じ純度ではなかった。もう片方には不純な気持ちが含まれていた。

お婆ちゃんは長女の家族から”3万円ぽっち”のお金をもらっていた。たとえ家族から煙たがられようとも、月命日になるとお婆ちゃんは長女の家に訪れる。そして、長女の近況を聞く。お婆ちゃん家で毎晩自分のとなりで寝ている”長女”は、今海外留学でオーストラリアにいるそうだ。

長女は、元の家族を恨んでいるのだろう。わざと妹の名前を源氏名にして、妹と同じ制服を着て、彼女は風俗系の店でバイトをする。それが元の家族への仕返しになる、と彼女は考えていた。彼女が自分を売ることで、彼女は前の家族が売れる、嫌がらせができる、と思っていた。

お婆ちゃんがもらっていた毎月3万円のことを長女が知ったとき、彼女は何に失望したのだろう。お婆ちゃんが自分のことをお金のために家に置いていた、と考えたからだろうか。それとも、「あの家族と手を切って新しい生活を送っていた」と思っていたのに、前の家族とお金でつながっていたことを知ってしまったから、だろうか。

普通、家族は”お金”でつながっている。しかし、大好きなお婆ちゃんとは、”お金”ではつながっていない。新しい家庭では、そういう純粋なつながりが持てた、そう思っていたのかもしれない。

お金でつながっていない家族を望んでいたとしたら、月3万円のお金は、彼女の新しい暮らしが、すべて勘違いだったと思い知らせるのに十分だったのかもしれない。

次女とルール

次女(ゆり)は、助けを求めていた。

冬の寒い夜に、家の外に追い出され、そのさらに外を見つめていた。

彼女は、悪いことをしたら何度も謝らないといけないと思っていたし、新しい服を買った後には叩かれると思っていた。彼女にはそれが普通で、それが世界のルールだと思っていた。

はじめて新しい家に来た時には、まだ彼女はほとんどしゃべれなかった。自分の名前もきちんと言えないくらいに。前の家族では、会話がほとんどなかったのだろう。家の外に追い出されたり、家の中にいても相手にされていなかったのだから、仕方ない。新しい家で半年ほど生活し、セミが鳴くような季節になると、彼女はかなり流暢にしゃべるようになっていた。

彼女は、世界のルールを理解する力を持っていた。謝るルール、叩かれるルール。前の家のルールはわかっていた。それがイヤだと思っていても、逃げるという選択肢はなかった。外の世界から引っ張り出されることでしか、救われなかった。

万引きをするルール。それが社会的にどういう意味かは分からないけど、新しい家のルールも覚えた。仕事の前に行うおまじないもできるようになったし、店の入り口にある防犯ブザーを無効にすることだってうまくできた。

「警察の人に聞かれたら、おばあちゃんはいなかった、そう言うんだ」。このルールもちゃんと守れた。5人のいる絵を描いて、海で”ジャンプ”した、と答えた。確かに、おばあちゃんはジャンプできない。ボロを出さずに、ちゃんと約束は守れた。

彼女には母親が必要だ。どうやらそれが世間のルールのようだ。”母親がそう思いたいだけ”なのかもしれないけど、そういう批判は、産んだもの以外は言えないらしい。

彼女は前の家族のところに戻った。前の家のルールに戻った。謝るルールと叩かれるルールに。

彼女は、また家の外にいた。そして、またそのさらに外を見つめていた。外からの新しい救いを求めて。

死んだ人間からお金が発生するということ

婆ちゃんは、夫の年金を「慰謝料」と呼ぶ。そして、それを「自分が稼いだ」ように息子に言ってしまう。図々しい、うざい婆ちゃんなのだ。

息子たちは、もはや婆ちゃんのいうことをちゃんと聞いていない。父ちゃんは婆ちゃんに向かって「クソババア」というし、母ちゃんも「昔は庭の池で鯉を飼っていた」なんて話は信用してない。だって、そんなに大きくないんだから。父ちゃんをその下に埋めることも、きっとできないだろう。

「おねしょには塩が効く」。この話も娘たちにはぜんぜん相手にされない。ちなみに、実際のところ、「おねしょに塩」はよくないらしい。塩をなめるとのどが渇いてしまう。その結果、水分を多くとってしまうため、おねしょをする確率が高くなってしまうのだ。

勘違いをして正しいと思っていたのか、何かを間違って覚えていたのか、どちらにしても、おばあちゃんの知恵袋的な頼り方はされていない。銀行のATMで「いいくに作ろう鎌倉幕府」という心の声が口から出てしまっちゃうのを見ると、頼るのは危険だというのもうなづける。

婆ちゃんは、死んだ人間からお金が発生することを知っていた。死んだ夫による”慰謝料”という名の年金は受け取れる(これは、正規のもの)し、死んだ夫とその後妻の間にできた家族からもお金は受け取れる(これは、正規じゃないが、犯罪ではない)。

そして、今度は家族が、死んだ婆ちゃんからお金が発生することを学ぶ。まだ生きていることにして、年金を受け取り始める(これは、犯罪)。入れ歯入れに隠したお金も見つける(これは、正規じゃないが、犯罪ではない)。

死んだ人間からお金が発生する。彼らが婆ちゃんから学んだことだ(犯罪です)。

兄と妹

兄に妹ができてから、二人は長い時間を過ごした。

妹の好きな麩を調達する兄。兄の遅い帰りを、いつまでも玄関で待つ妹。

妹は、「産みたくて産んだんじゃない」と言われて育ったのだから、”あぁはならない”のが普通だ。二人の間には絆が生まれていた。

万引きがいけないことだ、と認識するようになった頃、兄は「もう妹に万引きをさせてはいけない」と本気で思ったのだろう。なので、スーパーの前で待っておくように言った。万引きは店をつぶしてしまう。実際、あの駄菓子屋はつぶれたのだから間違いない。そんな悪いことを、もう妹にさせてはならない。ついてくるなと言ったのは、自分の仕事の邪魔になるからではなく、純粋にもうさせたくなかったからだろう。

しかし、妹はついてくる。彼女には、あの家にいる役割が必要であった。彼女には、あのおまじないが何のおまじないかわからないように、万引きがどういう意味なのかも分かっていなかったのだろう。そして、明らかに失敗する行動をとろうとしていた。

万引きをする家族では、万引きをするのが当たり前となるようなルールが敷かれる。学校には行かなくていい。盗めるものは盗んでいい。そうしたルールに、兄はもう乗っかっていた。そして今、妹も同じように乗っかろうとしている。

彼は、この生活に、終止符を打った。この瞬間、彼は貧困の連鎖から抜け出すための第一歩を踏み出した。自分が生まれてきてから今まで、ずっと常識として、当たり前に思っていたルール。これに疑問を抱き、考え、現状のルールに反する行動をとることは、誰にでもできることではない。

妹がいなければ、彼がこの連鎖から抜け出すのに、さらに時間がかかっただろう。疑問を何度も両親にぶつけ、葛藤する時間が必要だったかもしれない。正しい知識をつけるために、たくさんの本を読む時間が必要だったかもしれない。彼がこの家を出ていくという決断まで待たなければいけなかったかもしれない。

しかし、彼は早々にすべてを終わらせて、リセットした。

もちろん、今までの生活が終わったからと言って、新しい生活で貧困の連鎖から抜け出せるかどうかはわからない。また貧困の中に戻ってくるかもしれない。結局は、この連鎖から抜け出せない、そういうシナリオもあるだろう。ただ、この第一歩を踏み出せた、彼の成長がこの映画では描かれていると思う。

普通の家族は逃げない

普通の家族なら一人を置いて逃げるなんてことはしない、と警官は言った。家族を見捨てるなんてことはしない、と。

ところが、次女は、あの寒い日の夜、家の外に放り出されていた。実の家族が住んでいる、その家のすぐ外に放り出されていたのだ。行方がわからなくなって2か月もしてから、家族はようやく探し始めた。彼女は本当の家族から見捨てられていた。

長女も本当の家族から見捨てられた人間だ。彼女は、オーストラリアで元気にやっているらしい。夏休みは会えなくて寂しかったらしい。こちらは、まだ探すことすらしていない。見たくないものを見ないようにして、嘘をつき続けて暮らしている。彼らは、長女から逃げて、生活をしている。

息子の場合は、車上荒らしをしている父ちゃんが「見捨てることができず」に、連れて帰った。夫婦は拾って暮らしていた。「置いていくことはできない」と言って。死体だって捨てたわけじゃない。もとは拾ったものだったのだ。

普通の家族なら、家族を置いて逃げることはない。「普通の家族」と「逃げない」のあべこべ感が皮肉だ。

彼らの図々しさ

彼らは、図々しく生きている。「メールで仕事を辞めるって言ってきたやつ、今度見つけたらぶん殴る」と同僚がモリモリ怒っているその横で、父ちゃんはお茶を飲んでいる。「なんだか今日は調子が悪いから、『仕事休む』ってメールしてくれ」と、その日の朝に母ちゃんに言ってたばかりの父ちゃん(字の読み書きができない?)が、罵声の横でのんきにお茶を飲んでいる。

彼らには金がない。学もない。情報もない。彼らは、選択肢の中から答えを選んできてはいたけれど、その選択肢の数は少ない。時には、多くの人が選ばない選択肢や、犯罪になるような選択肢も選んできた。

金も選択肢もない彼らには、図太く、図々しく生きていくよりしかたなかった。多くの犯罪も行った。

婆ちゃんは、他人のパチンコの玉を、カゴごと自分のものにしてしまう。父親は、車上荒らしもするし、息子や娘を巻き込んで万引きもする。クリーニング屋で働く母親は、服の中に入れたままになっていた小物を、こっそりパクったりする。また、夫婦は、年金の不正受給にも手を出す。一応、身代金を要求する”誘拐”だけは、やらずにいたが。

バレなければ盗んでもいい。もちろんこれはいけないことだが、これが行動の選択肢に入ってくるくらい、彼らには選択肢が少ない。

ケガをした父ちゃんには労災は下りないし、時給の高い母ちゃんは会社の都合でクビになる。彼らは、追いつめられても、他に選択肢がない。

警察やマスコミは、「普通の人」の観点で、彼らに問いかける。しかし、生まれたときからたくさんの選択肢がある人に向かって、彼らの生活のことを説明することは難しいし、理解してもらうことはなおさら難しいだろう。何から説明すればいいかわからないから、彼らは言葉に詰まってしまう。

金がないこと、知識がないこと、選択肢がないこと、これらによって、どういう生活が待っているか、リアルに想像することは難しい。

似ていること

人は、同じ部分を見つけると、近づきたくなる。

4番さんは、自分で自分を殴っている。トークをしないトークルームで、彼はそう話す。自分で自分を性的に殴っている長女は、そんな彼の中に自分との共通点を見つける。そして、彼を抱きしめる。

元夫から暴力を受けていた母ちゃんには、次女が受けてきた苦しみがよくわかる。腕にできた同じ傷が、同じ暴力を受けてきた過去を物語っている。好きだから、殴る。そんなルールは間違っている。好きならば、抱きしめる。それが、本来の姿だ。

似ているもの同士なら、分かり合える。

ただ、似ているもの同士が集まっても、強くなれるかはわからない。彼らが一つの家の下に集まっても、貧困には勝てない。スイミーがマグロを退治するようにはいかない。

家族であること

一緒に暮らしていた彼らは、一見すると家族に見える。みんなで鍋を囲んで食べる。みんなで電車に乗って海に行く。みんなで縁側で花火を見る。見た目は家族そのものだ。

しかし、世間はそれを家族とは呼ばなかった。

家族であることとは、何だろうか。

クリーニング屋の同僚たちと見ていたあの家族。子どもは両親のどちらにも似ていない。血がつながっているのかどうか、わかったものではないが、世間的に見れば、彼らは家族だ。

血がつながっていることが家族であることなのか。似ていることが家族であることなのか。もしそれらが途中で無いとわかった場合、家族はどうなってしまうのか。

失踪した娘をなかなか探そうとしない。探すことすらしない。そんな家族だって、血がつながっていれば、世間的には家族だ。

一緒に暮らさなくても、家族なのか。いなくなっても探さないのに、家族なのか。

家族であること、家族でないことの境目を、いろいろな家族の形を使ってこの映画は問いかけてくる。

花火が聞こえるけど見えないことについて

彼らの家のまわりでは、普段耳にするニュースとの類似点がいくつも見つかる。

万引き、幼児虐待、DV、年金不正受給、貧困。ニュースを通じ、僕たちの想像力を超えてひどい現実が明らかになることもある。

マスコミたちは正義の代表者のように正論を振りかざして事件を語ることもあるが、実際、自分も正論を振りかざしていることもある。リアルに想像できないから、見えないものを相手に、ふわふわした議論しかできないのだろう。

それは、都会のビルやマンションに囲まれたボロい一軒家で、隅田川の花火大会を見るのに似ている。確かに、聞こえる。しかし、見えない。

そういう貧困があるという話は聞こえてくるが、具体的にどこにあるか、パッとは見えてこない。

また、逆に、そういう貧困に陥っている人たちには、花火という華やかな世界も見えない。

足を怪我しても労災が下りないような、ひどい環境の日雇い労働者は、高層マンションでの一家団らんのひと時なんてものは、聞くことはあっても、目の前に現れることはないだろう。

あのボロボロの一軒家と花火は、マンションという壁で隔離されている。あの一軒家での生活とあの花火は、同じ世界に存在して、音は聞こえてくるのだけれど、互いに見えることはない。

感想を聞かれることについて

僕がこの映画を見る直前に、「万引き家族を見に来た」とFacebookに書き込みしたんだけど、その影響で「万引き家族、おもしろかった?」と何人かの友人に聞かれて、返答に困りました。

というのも、おもしろい、おもしろくない、っていうような感想を抱くタイプの映画ではないからなんですよね。(一応、二回戦に入ろうとしたときに子どもたちが帰ってきて、慌てて「雨、大変だったなー、よし、風呂行けー」というシーンでは笑いが発生してました。このシーンは、笑えるという意味でおもしろい。あと、「男は無口に限る」のシーンも。)

ただ、説明が少なく、淡々と進んでいく形式の映画なので、苦手というか、つまらなく感じる人はいるでしょうね。そもそも、合わない、というケースです。これってこういうことかな、みたいに考えながら見る人じゃないと、苦痛ではないかと思います。

僕が映画館で見たときには、水曜日ということもあり、女性一人と女性二人組が多く、老夫婦がちらほらいた、っていう感じでした。性的なシーンがいくつかあるので、子連れで行くのはやめておいた方がいいです。カップルで行くのも、あまりオススメしません。

暗くてどうしようもないってことはないのですが、スッキリ明るく終わるというわけではないし、いろいろ考えながら見ないといけないし、テーマも重たいし、明確な答えがあるわけではないので、見た後には結構な疲労感があります。

示唆に富む内容で、「家族」を中心に考える人もいれば、「貧困」を中心に考える人もいると思います。個人的には、「兄と妹」のところで書いた、しょうたが成長する物語、貧困から脱出する物語、という面が一番印象に残りました。

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