「ルールを守らなくても問題は起きなかったこと」はルールを守らなかったことと何の関係もない
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元マスコミの人が、マスコミを批判するという絵なんですけれども。
あの姉歯物件は東日本大震災でビクともしていなかった。「臭いものには目をつむる」マスコミに蔓延している体質
耐震強度の偽装が問題となった姉歯事件の時に、「偽装物件は地震で倒れる」とマスコミはあおっていたが、東日本大震災で建物は倒れなかった、この都合の悪い事実をマスコミは報道しないし謝りもしない、という内容。
これに対し、いやいや、震災で被害出てたし、出うる状態だったよ、という話が次の記事。
「姉歯物件は大震災でビクともしていなかった」と長谷川豊が言ってんだけどさ: やまもといちろうBLOG(ブログ)
そもそも、被害が出てなかったとしても、1つ目の記事は話がおかしい。地震で倒れなかったとして、「今のルールは厳しすぎる、少し緩和したほうがいいのでは?」という話が出るのはわかる。でも「結果的に倒れていないんだから、過去の偽装批判報道はやりすぎ」ということにはならない。
結果がよかったらいいという話であれば、「おなかを壊した人がいないんだから、床に落ちた肉の使用を責めるのは厳しすぎ」とか「論文の結論があっていたら、根拠となるロジックが間違ってたとしても、それを批判するのはいきすぎ」などという理論になってしまう。
「結果」とは、起こりうるシナリオの一つが現実化しただけであり、その背後には「起こらなかった悲劇的なシナリオ」がたくさんある。ルールは、その悲劇的な可能性を減らすために存在する。「ルールを守らなかったこと」と「ルールを守らなくても悲劇が起きなかった例があること」は、全く次元の違う話だ。
自分が報道しやすいように、恣意的に専門家が選ばれた可能性はあるかもしれない。しかし、マスコミが一番批判されるべきところは、「頭髪も偽装だった」とかいって無関係なカツラの話をしたり、妻とか愛人とか関係のない人を巻き込んだ報道をしていたところだ。偽装について袋叩きにしていたのは、偽装してた方が悪い(程度の問題はあるけど)。1つ目の記事で「偽装に手を染めてた時に、建築士の妻は闘病中だった」とか書いてるけど、偽装と全く関係ない。