勉強することは、光をとりいれるということ
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「勉強することに疑問を持つ時点でダメなのか?」で、勉強する理由を話題にしたブログを紹介したけど、今日は、僕が考える「勉強する理由」を書きたい。
勉強する理由は、光をとりいれるためだと思う。
人は生まれたときには、世界のことを何も知らない。真っ暗な家の中にいるようなものだ。どこに何があるか、家や部屋がどんな構造になっているか、何も知らない。適当に歩き回れば、何かを踏んだり、何かにぶつかって転ぶこともある。
ところが、カーテンを開けて光をとりいれれば、部屋の中が見えてくる。カーテンにたどりつくまでには試行錯誤が必要で、手間も時間もかかる。しかし、カーテンに手が届けば、それを開くのは一瞬。光が差し込む瞬間は、今までの謎が瞬く間に解決する。「あれにつまづいてたのか」とか「ここに壁があったのか」ということがわかるようになる。もう一度カーテンを締めても、目は慣れたし部屋の構造はわかっているので、これからはすぐにカーテンにたどりつける。
また、一度部屋の中に光が差し込むと、別のカーテンが見えて、新しい光が入るきっかけになることもある。例え、最初の窓からの光が弱くても、窓を増やせば視界は広がる。
もちろん、部屋の中を歩き回らず、落ちてるものにも手を伸ばさないなら、光をとりいれる必要はないのかもしれない。しかし、部屋の中が見えなければ、そもそもそういった行動をとるのは困難だ。
もし、カーテンを開けずにいたら、どうなるだろう。何も見えないから、まわりにあるものすべてが障害物のように感じるだろう。障害物の多さに嫌気がさし、狭い範囲しか行動しなくなる。両手が届く範囲を基準に、部屋全体、家全体はこうなっているだろう、と推測してしまう。あっていることもあるけど、カーテンを開けた人に比べれば、精度は悪く、誤解が多いだろう。
「カーテンを開けたところで、その部屋が自分の居たい部屋じゃなかったら意味がない」という声もあるだろう。しかし、カーテンの開き方は、他の部屋でも応用できるかもしれない。カーテンを開こうとせず、手の届く範囲で世界を理解しようとする人は、どの部屋にいても暗闇から抜け出せない。