「わかりやすい説明」と「ウソ」
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何かに詳しい人が、それに詳しくない人から「わかりやすく説明してほしい」という依頼を受けることはよくある。「理解力がある」と「説明力がある」は違う能力だけど、理解してないのに説明するのは無理だから、とりあえずその人の説明力に関係なく、こういう依頼は発生する。
「わかりやすい説明」が満たすべき条件はなんだろう。たくさんあるけど、パッと思いつくだけでも、「量が少ない」「細かすぎる話がない」「項目が整理されている」「たとえ話が多い」「やさしい語彙を使う」「ロジカル」「問と答えの対応が明確」などがある。
「わかりやすい説明」を実現するには、自分が理解しているものを振り返り、「ここは必要、ここは省略しても影響なし」と要素を取捨選択し、ストーリーを作り上げていく必要がある。説明をする相手の理解度に合わせて、盛り込む内容とそれをつなげる作業が必要となる。
そうすると、どうしても「自分の理解よりも雑な説明」しかできない。使う時間も内容も少ないんだから当然で、説明者はまずそこで歯がゆい気持ちになる。しかし、わかりやすさのためには、細かい話はカットするしかない。
まじめな人はこれができなくて、「やっぱりあれも入れよう、これも入れよう」となり、徐々にわかりにくい説明になってしまう。使う時間が短いのに内容が多くなるのだから、聞く人のキャパを超えやすくなってしまう。
時には、この「雑な説明」が、若干の「ウソ」を含む場合がある。例えば、「実はこういう例外もある」とか「これは断言できるわけではなくて、別の見方をする研究者もいる」とか「たとえ話のこの部分はきれいに対応してなくて、実際とは少し異なっている」とか。
細かな枝葉をカットするのと、幹の形を少し変えるのとでは、意味がまったく違う。後者は、見る人が見れば「ウソ」だとわかってしまう。自分も理解しているがゆえに、自分の説明が正しくないことを「わかっている」。できればウソはつきたくないんだけど、わかりやすさを優先すべきか悩ましい判断が要求される。
「わかりやすい説明をする」のは、「ウソとの戦い」も含んでいる。説明者には多くの負担がかかっている。