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漫才はどんどんやりにくくなるんじゃないかな

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3日連続で、笑い飯の「奈良県民歴史民俗博物館」のネタについて書いたんですけどね。今日は「おもしろさ」について書いてみたいわけです。

「おもしろさ」にはいくつか種類があると思うんですよね。例えば、あるあるネタのように、「今までなんとなく見過ごしていたけど、気にはなっていたもの」を再認識したときに感じるおもしろさ。吉本新喜劇やお決まりのフレーズが入った漫才(大木こだま・ひびきの「往生しまっせ」とか)のように、「違う文脈でおなじみのセリフ」が聞けたときに感じるおもしろさ。他にもいろいろありますが、やはり一番典型的なものは、「普通の中にある、ちょっとずれた普通じゃない部分」に感じるおもしろさなのかなと思います。

「ちょっとずれた普通じゃない部分」というのは、先の「奈良県民歴史民俗博物館」のネタであれば、昔の人の食べ物の解説のシーンで、苺にシロップがかかったようなものが出てくるところですね。普通、そういう食べ物は出てこないでしょ、っていうところにおもしろさがあります。

ただ、こういったおもしろさが「おもしろいもの」として成立するには、話し手と聞き手に共通の知識なり想い出なりがないとダメなんですね。でないと、「ずれた部分」が作り出せません。しかし、両者が共通部分を持つことはどんどん難しくなるんじゃないか、そして、どんどん漫才はやりにくくなるんじゃないかなと感じています。そういったことを、こういうのを読んだ時に考えたりするんですよね。

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おっさんが出る、おっさんが作ったテレビは、共通の背景がない若い子には理解できないものになっている、と。おもしろくないのではなく、「わからない」ということなんですね。

よくある漫才の入り方として、昔はこんな遊びをしたとか、こんな昔話があったとかがありますが、知識や思い出の共通部分が減ってくると話が通じなくなるんですよね。こういう導入ができなくなる。時代の流れが速くなり多様化が進むと、共通部分が作りにくくなるから、漫才は今後どんどんやりにくくなりそうですよね。

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