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888文字のブログです

わかりやすさを求めすぎる世界で。

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「わかりやすい」のはいいことだとは思うけれど、それを求めすぎるのはどうなんだろう。それしか求めないのはどうなんだろう。「わかりにくいからダメ」と拒否して、そもそも話すら聞かない、という姿勢は、大事なものをいろいろ捨ててしまっている気がする。

どこがゴールなのか見えない話とか、必要な前提知識・専門用語・飛躍が多すぎる説明などについては、話し手の方が悪いことももちろんある。だけど、テーマによってはある程度は仕方がないこともあるだろう。聞き手からの歩み寄りも必要だ。「オレは一歩も動かん、お前が来い」という姿勢では、理解までの道のりは遠い。

「わかりやすい」っていうのは、理解を妨げるものをいろいろ排除して、シンプルにしたものだと言えるだろう。なので、その説明を聞けば、なんとなくわかった気になるかもしれない。だけど、本当のおもしろさはよくわからない。例えば、「シン・ゴジラは、東京で暴れるゴジラと日本人たちが戦う映画です」くらいの話を聞いて、「なるほどそういう映画だったのか、よくわかった」と言っちゃってるようなものだと思う。

場面によっては、そういうレベルの理解でいい場面もあるだろう。でも、いつもそれでいいんだろうか。自分が知りたいレベルに対して、「わかりやすさ」を過剰に求めていないだろうか。ざっくり知りたい場合と、深く知りたい場合とで、相手に同じわかりやすさを求めるのは酷じゃないかな。

最近は、コミュニケーション能力が大事だと言われている。人によって何を指すかが違うあいまいな言葉だけど、この中に「端的にわかりやすく説明する」という要素が含まれると考えている人は多いだろう。面接やプレゼンなどでは重要な能力だ。これも、忙しくて時間がないから、短くてわかりやすいストーリーをくれ、という聞き手の思いから来るんだろう。ただ、これだと「優秀だけど説明はうまくない」人は落とすことになるけど、それは会社にとってハッピーな選択なんだろうか。

自分が説明するときはわかりやすさを意識しているつもりだけど、「わかりにくい、もっとわかりやすく!」と要求されすぎると、なかなかつらいものがある。

(888文字)