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厳しい指導ができないことについて

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これを読みました。

イチロー氏 「指導する側が厳しくできない」時代の流れ 「酷だけれど…自分たちで厳しくするしか」― スポニチ Sponichi Annex 野球

たしかになぁ。かつて厳しく指導するのが当たり前の時代があって、でもそういう時代では、

  • 単に厳しいだけで効果がない練習
  • 科学的・医学的に危険な行為(うさぎ跳びとか、練習中に水を飲まないとか)
  • 体罰などの明らかに問題のある指導

が含まれていて、その結果、

  • 嫌気がさして才能ある人があきらめてしまう
  • ケガや病気で続けられなくなってしまう

などの悪影響が顕在化してからの、「厳しい指導はしちゃダメ」という今があります。

過去の「厳しい指導」には問題のあるものももちろんあり、ひどいものはニュースになったりもしています。しかし、全面的に「厳しい指導は辞めましょう」となると、効果があったものもなくしてしまうことになります。体罰などはもちろんダメですが、大きく成長するには、成長痛のようなものが必要になると思います。とはいえ、1つ1つの練習や指導に対して「これはいい、これはダメ」と判定することは難しいので、一律で決めることになってしまうんでしょう。

一律に「厳しい指導はダメ」となると、こぼれていく子は減るだろうけど、本来もっと上までいけていたはずの子は途中で止まってしまう気がします。自分で自分に厳しくできる子は、それでも上に行ってしまうんでしょうが、それは限られた一部の人だけでしょう。孤高な人が数人いて、そこですごく過激な競争をしつつ、その下ではゆるく成長する人たちがひしめき合う、みたいな感じになるんでしょうか。それでもライバルの数を考えれば、孤高な人たちの到達点は低くなる気がします。

反動の反動みたいなのは将来起こるかもしれなくて、例えば、オリンピックみたいな国同士での競争になったときに成績があまりよくないなどの影響が出てくれば、やり方を見直すきっかけになりそうです。そのときには、厳しい指導も厳しくない指導もどちらもあって、自由に選べるようになるみたいな世界になっていると、発展的にハッピーになるんじゃないかと思います。

(888文字)